2014年09月23日

差別感情の哲学



今回は本の紹介です。



自身の中に湧いてしまった悪意を処理しきれず、いじめ、ハラスメント、虐待をすることに至らないように、またはいじめ、ハラスメント、虐待をする人に加担してしまうことのないように、僕らは常に学習しトレーニングを積まなければならないと感じます。


こちらは、そんなことを考えるときに、読むと良いかもしれない本。





差別感情の哲学 / 中島義道 (講談社)
※序章より抜粋

『〜前略〜

あらゆる悪意とその発露が根絶された理想社会を掲げて現状を嘆くのではなく、自他の心に住まう悪意と戦い続けること、その暴走を許さずそれをしっかり制御すること、こうした努力のうちにこそ生きる価値を見つけるべきなのだ。人間の悪意を一律に抹殺することを目標にしてはならない。誤解を恐れずに言えば、悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。それをいかに対処するかがその人の価値を決めるのである。

〜中略〜

自分のうちに潜む攻撃心を圧殺してはならないということは、それを容認することではなく、ましてそれをそのまま肯定することではない。われわれは、むしろ差別感情に伴う攻撃心や悪意を保持したまま、自己を正当化することが多い。ここに、剥き出しの攻撃心や悪意よりはるかに悪質な、巧妙に隠された攻撃心が育っていく。ここには、差別をしているのではないと言いながら紛れもない差別をしているという狡さが悪臭を放っている。
 人間は様々な場面で狡いが、差別問題はこれが露出する場面である。そのうち最たるものは、「区別があるのであって差別ではない」という主張であろう。これは、必ず差別をしている側から発せられる。

〜中略〜

差別問題において、「これは、差別ではなく区別だ」と言い張る人は、「自然である」という言葉を因習的・非反省的に使いたくてうずうずしているからである。それは男として自然だ、女として不自然だ、中学生として自然だ、日本人として不自然だ、・・・・・というように。彼はこうした反省を加えない「自然である」という言葉に行き着くことによって、すべての議論を終わらせようとする怠惰な「自然主義者」なのである。
彼は、そこに潜む問題をあらためて見直すことを拒否し、思考を停止させる人である。「結婚するのはあたりまえ、女が子供を産むのは自然」という結論をいつも手にしており、その鈍い刀ですべてをなぎ倒すのだ。

ある人が、差別用語におけるコンテクストにおいて「あたりまえ」「当然」「自然」という言葉を使用したら用心しなければならない。差別感情の考察において、「子供が学校に行くのはあたりまえ、大人の男が働くのは当然」と真顔で語る人こそ、差別問題を真剣に考えている人にとって最も手ごわい敵である。なぜなら、彼らはまったく自らの脳髄で思考しないで、ただ世間を支配する空気に合わせてマイノリティー(少数派)を裁いているのだから。しかも、そのことに気づかず、気づこうとしないのだから。

〜中略〜

差別感情を扱う際に最も大切な要件は「自己批判精神」であるように思う。いかなる優れた理論も実践も、もしそれが自己批判精神の欠如したものであれば、無条件に自分を正しいとするものであれば、さしあたり顔を背けていいであろう。
とくに、現代に生きるわれわれは差別のない理想的状態の実現を急ぐあまりに、強引に敵を押さえつけるという批判性的な態度をとってしまいがちである。

〜中略〜

自分の限られた視点・限られた材料・限られた価値観から「客観的結論」を導くという「仮象」に陥る危険があるということである。それを避けるために必要な要件は、パスカルの言う「繊細な精神」ではないだろうか?いかなる議論も人間のあり方を丹念に辿っていく態度に基づかねばならない。大鉈をふるって切り捨てる議論、一方的に切りつける議論は、いかにそれが説得力のあるように見えても、希望をもたせるように見えても、論理的には「正しく」見えようとも、取るに足らない。』























  


Posted by anti-moral harassment project  at 09:07